昭和四十九年五月二十九日 朝の御理解

御神訓一 今より何事にも方位は忌まずわが教えの昔に帰れよ。


 日柄方位の方位という事でしょうねえ、方位というのは、そういう迷信的なことから離れて、教えの昔、私共がこの世に生まれ落ちると同時の心に帰れと、教えの昔というのは今日、私はそういうふうに感じるです。
 丸裸で、この世にいっちょ成功してやろうとか、もうけだしちゃろうかとか全然思わずに、この世に生まれ出て来ておるという事です、だから今日は教えの昔という事は、そういうふうに頂いて頂きたい、言うならば無心に帰るということ、昨日は心ない人という事を申しましたが、だからあれとは全然違う訳です。
 無心に帰る、私は皆さんが一生懸命御祈念をなさっておられる、大はらいなんか奏上しておられる時なんかまず皆さんが無心の状態にある時だと思いますね、先唱なさる先生の大はらいについて、一生懸命、天津祝詞大はらがひとつのリズムに乗ってあげられて行くときね、ああいうときが私は神様に無心の心で向かっている時だと思います。だからやっぱり大はらいを覚えにやいけませんよ皆さん、覚えようと思うたら、もう本当に一日二日で覚えます、千代田さんなんかは朝ご飯炊くとき、二日か三日で覚えたそうです。覚えようと思うたら覚えるです。
 私は昔、千代田さんからその事を聞いて一心ちゃ大した事じゃあると思うた事があります。確かにそうですよ、そしてね大はらいをです、それはここでは一巻しかあげませんけれども、自分の気持ちがよい時には、もうそれこそ三巻も五巻もあげてごらんなさい、もういよいよ心はね。澄み切って、無心になれます。これがね信心の根本なんです。
 私は今日、御理解十三節を引用して聞いて頂きたいというのは、神は打ち向かう倍力の徳をさずけるとおっしやるのは、そうにや一生懸命参ったという事だけじゃないです。打ち向かうという事は、十年毎日、日参りをした、もう何十年続けて参りよるという事だけが、あながち神様え向かうたという事じやないです、神に向うてしかも倍力の徳を頂くという、おかげを受けたというならそれでいいです。
 それはもう一ヶ月なら一ヶ月日参りをしてこげなおかげを頂いたという事はいえますけれども、そんなら打ち向うた倍力の徳を授けて下さる程しのものはね、私はこの無心に向かう姿にしか倍力の徳は頂けないと思う、それは誰だってたくさんの人が金光様を唱え天地金乃神さまを唱えて永年信心してますけども、そんならおかげは受けも、お徳は受けてないという感じでしょうが。
 何故かというと、ただ我情我欲の為向うたというだけだからなのですよ。だから徳を受けたという人はやはり無心なんです。いうなら死んだ気なんです、一生懸命です、そういう向いかたをするから神様から倍力の徳が授けられるということなんです。ですから今日のこの御神訓から私はいままでいろいろに続いてきましたけれども、今より何事にも方位は忌まず我が教えの昔にかえれということは、教えを受けていこうとする者の根本精神だと、それにはね、いままでの事の迷信的な事とか何とかという事じゃなくて、もう教えの昔にかえれ、自分が生まれた時のあの姿に帰れ我情もなければ我欲もない、しかも我ものとては糸一筋だって身につけてはいけない、いわゆる赤裸々な、真っ裸の姿なんです。
 この真っ裸の姿になって祈る時ですね、私は無心の祈りという事になるのじゃないかと思う、昨日竹葉会でございました、昨日初めて竹葉会に入られた方ですが、それが親せきの家にやらして頂いたところが、丁度そこの従兄弟になりますから、今から竹葉会に行くとじゃからあんたもおいでという訳なんです、それがその一生懸命、お母さんに、いわゆる、分限者の家に嫁いでおりますから、分限者であればあるほど、その格式とか、色々ある訳なんです、それにな染めない子供が二人おりますけれども、もう六年といわんでしょね、その時、私が色紙に〇〇さんあんたがねあちらえいったら、これでいくことばい、女子青年の時分には熱心に信心しとりましたから「四方拝」と書いてやった。
 四方拝というのは元日の事を四方拝というのですけれども、四方拝、もうあんたの周囲のね全部を拝んでいくのばい、又全部の事柄を今の言葉でいうとですね、御事柄として拝みきっていく事よというて、これはもうあんたの一生のかけ守りじゃというて四方拝と書いてやった。
 ところが親先生、あれをいつも自分の部屋にかけておって思うのですけれどもね、この事だけは拝めるばってん、この事は拝めんということがね、もう一杯と、特にお母さんとは仲良くしなければと一生懸命尽くして尽くして、尽くしてみるけれども、それが全然お母さんには伝わっていかないという訳なんです。それで私がねお母さんと仲良うせんならんから可愛がってもらわんならんから、一生懸命尽くしよるけんいかんたいと私が無心に尽くさんからよと、ゆう意味の事を話した事でした。
 無条件なんです、可愛がってもらおうとか、不幸だからじゃないのだと娘時代に頂いておった、いわゆる御教えをですね、いわゆる無条件に尽くさなきゃというてお話しをした事でした。皆さん無心という事は、そのような働きがあるという事がわかるでしょう、一生懸命に御用をさせてもらっておる、ちやんとソロバン持ってこれこれだけのもうかりがあるから一生懸命頑張らにゃ、そして今度はソロバンどうりにいかんとガッカリする。一生懸命尽くしておる事は素晴らしい事だけれども、お母さんと仲良うしてもらわんならん可愛がってもらわんならんから、努めておるというような事ではねやっぱり通じない。
 それこそ無条件、いうならば無心にそれを尽くすという丁度皆さんが大はらいを奏上してる時にはもう一生懸命に、ひとつのリズムに乗って大はらいがあげられるように、私共が無心に神様え向かう、だからそういう心をそのまま自分の実生活の中に持っていくことの為に、御祈念のけいこはさせてもらうんだと思うですね、素晴らしい事なんですよ、そういう素晴らしい事を目ざさして頂くという事。
 ところが今もいうように西の方は拝めても、東の方は拝めないというような事に直面するのでございますお互いが、私は今朝からお夢を頂きょつたが、きれいなあれは三吉というんですか、大きなナシがあうでしょうがあのナシのもう見事な丁度はかとうのようにきれいな、それでいてやっぱ三吉ナシという感じですよ、それをこんな素晴らしい紙でというような紙でねひとつひとつ包んで、こうやって箱の中い収めておるところを頂いたそして今朝の御理解を頂いて、今日は今まで解いたことのない、この御神訓からしてるわけなんです。
 ナシという事は、無という事だと思いました、自分を空しうするということ、昨日の心ないというのでなくて、無心ということだと思いました。だから私共が無心に打ち向うた時の、その心だけは紙、神が大事に大事にしまっとって下さる、私はそれを今日感じてですねえ、これはだから時々でもよいから、無心にならなければいけないと思うですねえ、お互いの実生活の中にです、いわゆる自分を空しゆうした姿で人に接する事に接する問題に接するという事、それはね神様がちやんと見ておいでなのですから、ちやんと聞いておいでなのですから、それを聞きとって下さる、それを神が包んでいちいちお前の為に残しておつて下さる、私の為にちゃんととっておいて下さる。
 これは本当に無条件、例えば、子供の寝姿なんか、無心に眠っとるとよくいうでしょう、そういう無心にね私共が御用させて頂く、そういう意味で私共は心を神様に向けさせて頂く、全ての事を通して、という事はです無心に通づるわけです。神様に向かうということは、教えに取り組むということなんですよ、金光さま金光さまと唱えよるという意味じゃないですよ、教えに取り組んで一生懸命精進しとるその姿こそが無心なんですよ。 もうひとつお夢を頂いた、それはもう雪景色なんです、素晴らしい雪景色なんです。
 そこでね中村吉右衛門兄弟が勧進帳の問答の所をやっているのですよ、それがその雪の中ですから、下駄にこう雪がつまってる訳なんです、それで、その下駄の雪を払いながら、こうやつてまつておるところなんです。そしたら吉右衛門が富樫をつとめているんです、それがねコロッと転んだんです、その周囲には沢山の見物人が見てる訳なんです、そしてそのひのき舞台じやない訳なんです。いうならば、そうした自然の雪景色の中で、いわゆる歌舞き十八番の勧進帳がやっておる、それを沢山の人が取り巻いて見ておる訳なんです。
 それで格好がおかしいもんですからワーッというて笑ってる訳なんです。そんなところを今朝お夢で頂いた、どういう事だったろうかと今日の御理解から、ヒントを得たのですけれども・・・・
 私達が信心をこうやつてケイコをさせてもらっていろいろと教えて頂くその教えを行ずるとか守とかいうことはね、場合には非常の場合あある非常識というですかね、金光さまの信心する人達ばっかりは常識がないと言われる事がある、それを私は非常識と言わずに超常識と申します。
 神様神様いうてから、もう人間関係の方なんかはおるすにしてしまうというような場合がありましょう、いうなら義理も人情も知らん、いや又義理人情を考えよったら、信心はできん事がたくさんなるとです。だから義理や人情の世界じやないです、信心の世界というのは、例えば、隣近所の本当にお付き合いといったような場合でも、それを無視しなければならない場合があるです。
 金光さまの御信心させてもらうと、一にも神様二にも神様という生き方をさせて頂きよりますとですね、今日は町内で旅行がある「あんたいつもこんけんで今度はさっちきなさい」「いやあ私はそういう物見遊山に行こうとは思わん」「あんたがそげんいうちからこんから皆んなが乱れる今度はどうでんきてもらわならん」といわれたというのです昨日、だからいろいろ考えた末に嫁が信心がないから、そんなら嫁なっとん変わりに出そうというてから出したと、これわ昨日の原さんのお届けです。
 もう原さんが神様ばっかりいうてから近所付き合いもせんといわれとるのですよ、もう自分の心の中には温泉にどん行ってから、物見遊山に行くなんて、もう全然問題じゃないわけです原さんの場合は、それがしかも事神様という時にはそげな事は問題じゃない、それは行かにゃ行かん損なんですよね、いうならば、町内の費用で行くのですから、けどもそんな事は問題じゃない、そんな場合がたくさん出てまいりますよね、それよりかもっともっと深刻な事が出てまいります。
 もう金光さまの信心ちゃというて笑われるような、今の勧進帳じゃありませんけれども、それは私共は自然をバックにした天地金乃神さまをバックにした生活なのだ金光様の御信心は、だからもう本当にここが頂けたらもうこんな素晴らしい生活はないのです、そんならお商売をさせて頂くでもですね後ろにバックを持っておるという事は大変な強い事なんですよ、というように、神様がバックだ自然がバックなのだ、もう神様が私の後ろだてなのだという、そのおかげがねハッキリ頂けるようになったら、こんなに強いことはないです。
 丁度雪景色ということは、もう一番つらい寒い情景だろうと思いますよね、ただ今修行のまっ最中という人達がです、そういう修行の中に、そんなら勧進帳の稽古をやっとるわけです、勧進帳というのは皆さんも御承知のように、通れない所を通れるという筋なんです、あそこは普通だったら絶対通すことも出来ない通ることも出来ないという所をです通させて頂けるという筋があの勧進帳なんですよね。
 はあ段々今朝から頂いた御理解がハッキリしてきた、なるほどそうだなと、なるほどナシをひとつひとつ奇麗に紙に包んでしまっておって下さつたこともなるほどそれにつながってきた、成程今よりは何事も方位は忌まずという、もう理屈をいうなとそれは人情でいえば義理でいえば、そうかもしれんけれども、そういう義理も人情も一応捨てなさいと、親先生任せにさせて頂いたら、かえって困った結果になった、それがありがたいという生き方なんです。
 そういう心で打ち向かう時にです、神は向こう倍力の徳を授けると、そういう信心、無心の状態自分という者をあげんいうたら、あの人が悪口をいうだろう、あげんいうたらあの人達が笑うだろう、そういう事はもう空しうして、そういう事は問題でないとして神様一途に向こうていくというそれが無心なんだ、だから、そんなら、心ない人はそれを笑うだろう、それを悪口いうだろう、けれども人間から笑われても、神様から笑われちゃならんという行き方なんです。
 そういう行き方を持って神に向かうところに初めて倍力の徳は受けられるのだということ、ただ一生懸命参った拝んだから徳を受けるということじゃない今日の御理解頂くとそういうことになるのです。今合楽で皆さんの場合はです、まあ雪景色といかんでもです、勧進帳のいうならば、いよいよ、ひのき舞台に立った時いよいよ本当の舞台に立った時にです、それこそ大向こうをうならせる程しの見事な演技が出来る事のために、皆さんはケイコしておられる時だ。
 今は倒れ転びしよるから信心しよったっちゃ、あげん貧乏しござるじゃないの、信心しよったっちゃ、あげなことが起こったじゃないのというのはね丁度、中村吉右衛門兄弟が勧進帳を高ぼくろはいて雪景色の中でやってるもんですから、雪が下駄につもっとる、それでコロッと転がる姿なんか皆んな見よる者が手をたたいて笑いよる、だから笑われて賢うなれ、たたかれて強うなれという事なのです。
 皆さんの中にも随分あれが金光さまにばかり参いってということもあるだろう、隣近所には不義理をしとる、借金はいっぱい重なっとる、けれどもそういう不義理はしているけれどもです、やはり神様の方だけには一途に向かうていこうと、そういう向かい方でなければ倍力の徳は受けられないというのです。
 私共でも一生懸命借金はいっぱい持ちながら、やっぱりお供えの方だけは一生懸命させて頂いた、もうそれこそ身の皮はいで、それこそ借金払いの方え持っていきゃ向こうの方は合点してくれるですよね、そがしこ借金が減るわけなんですよ、けれども、もうそげなことは目をつぶらせて頂いて、ただ一途に神様神様である、だから神様がいよいよ、いうならば
借金払いをして下さるということになったら、もうアッという間でしたよ。私が一生かかったっちゃ借金払いは、その時代出来まいと思う借金が1年足らずで終わってしまいましたよ、それまでにはだから随分悪口も言われた又は笑われもした。
 だから笑われちやならん、悪口いわれちやならんからというて、そっちの方えかまいよったら、いつまでたっても倍力の徳になってこない、私がいいたいのは、その徳を受けて頂きたいということなんだ、だから金光さまの御信心は義理人情じやいかん、もうそれを超越したもの、本当にね、例えば、その、いよいよ本番という時ですたい、例えば、昨日、竹葉会に佐田さんが見えていましたが、佐田さんの過去の信心から話させて頂いて、もう本当に、まあ今は反対になっておられるからいえれるんですけれどもおばあちゃんだけなら、口の中に入れとるもんでも、こうやって食べさせたい訳です、いうなら年寄りに、ところがどういうもんか、おじいちゃんというのは虫がすかんで、もうどげん努めよう努めようとと思うても、もうこうもしてやろう、ああもしてやろうと思うてもね。
 もうおじいちゃんの顔見るとしたくない、やったもんでも取り戻そうごとなってくる、どうしたことじゃろうか、というてあちらのおじいちゃんが、こうして信心のごたる顔してござるかというと、それはもう、こあいらしい、もう実に上品なおじいちゃんでね、そして私どんからみりや、優しかろうごたる、だから嫁さんの恵美子さんだけには、いやでいやでたまらんごと見えた訳です、それが例えていうと鬼じゃろうか、邪じゃろうかというごと見えたけれども、そこんところをやはり、主人を育てた親であるというような、また信心でいけばです、その親に対して一生懸命、いわゆる、それこそ、無条件に好きになろうという事に努めさせて頂いておったら、もう今度はそのおじいちゃんが可愛らしゆなってきて、そしてやすみつきなさるころから、もうおかげを受けておられましたが。
 もう本当におじいちゃんが恵美子さんを拝みなさる、涙流して拝みなさる、もしこれがあの好かんままおじいちゃんが寝られたら、もう本当に、まあ、それこそ早う死なっしやりやよかという気持ちしかおこらんとじゃなかろうかと思う、それをねいろいろお世話される事が有難うしてたまらんごとなってきた。
 いわゆる鬼か邪に見えたその姿が神の姿に見えてきた訳です。最近、御兄弟達が、東京とか日田当たりえ嫁入っておられる方達が見えられた、それに例えば、そんなら自分の御主人の姉さん達ですから、その間にあちらでは改式という大変な事があっておった。もう皆さん心に心配はしておられる、先祖代々の仏さんでんなんでんつぶしてから、御仏壇でんなんでんどこかやってしもうてから、というような問題が起こりはせんだろうかとところが、もうそのことには、これから先も皆んな触れられなかった。
 そしてもう有難い有難い雰囲気の中に、もうとにかく毎日が楽しう過ごしておるという事実がね、もういうなら、ひのき舞台で舞っておられる姿があまりに素晴らしいから、わからんものでも、拍手喝さいしとるような姿じゃなかろうか。
 だから問題はやはりおかげ頂かなければならない、いや頂きぬかなければいけないという事です。嫌やで嫌やでたまらんのが、好きで好きでたまんというところまでやらして頂くと、それは嫌いなものでも、それこそ神様の姿であったとわからして頂く、それには無条件にです好きになる稽古をされたという事です。そしていわれる本当にああしてやすみつかれてから、これがもう何年前の自分の心の状態であったら、おじいさんも不幸なら、それを世話させてもらう嫁も、不幸だということ。
 現在ではいわゆるおじいさんも幸せなら私自身も幸せだということ、無心に打ち向かう間に徳を受けられた、力を受けられた、それが本当の神様の姿に触れる事が出来たという事になります。今より何事にも方位は忌まず、我が教えの昔に帰れよ、今日はその事を、いわゆる無心に帰れよと聞いて頂きました。それは私共が生まれた時そのままの姿、ああしてやろう、こうしてやろうというような思いを捨ててのいわば生き方になれよということ、御祈念をさせて頂く、いわゆる大はらいを奏上させて頂く時にああこれが無心だろうかと、ホット気づかせて頂く時に、それを思われるような時があろうかと思う、私がここから皆さんの御祈念ぶりを見とってからああ無心の状態だな、あの方達はとこう思う。
 だからいっちよ大はらいも本気で覚えさせて頂いて本気で自分で一人ででもええ、静かに静かに大はらいを上げさせて頂くこれが無心だと、こういう心で自分の受け持ちの場でです、いうなら御用させてもらうということ、又は色々の人間関係の場合等に昨日の竹葉会でもお話じゃないけれども、お母さんと仲良うしたいばっかりに一生懸命努めても努めてもお母さんがそれを認めて下さらないと、それはあんたが条件があるからだということ、あんたが無心で努めてごらん、お母さんに通じないはずはないと、無条件で努める、そういう事が日々の中には何回かあるおかげを頂きたいというのです。
 自分を空しうしていうなら縁の下の力もちというが、ほんに私ばっかりは、ばからしか、いつも縁の下の力もちばかりしとかんならんという時には、無条件じゃない縁の下の力もちそれをですいわば無条件でさせて頂くから力がつくのです、そういう時にそんなら自分が空しうなるということがです自分を犠牲にしきってしまうという事がです、現代の人の考えからいうと、もうそれこそおかしな事でしょう、ひとが笑うでしょうね。
 けれども笑われても、一遍それを本気で行じてみることが、いかに自分を空しうすることが素晴らしいことかという事を体験されることだと私は信じます。そういう無条件の心で仕事に取り組む、人との関係の上においても無条件で奉仕する、そういう生き方であるという事はそのまま神様へ向こうおることですから、そういう心で向かう時にです神は向かう倍力の徳を授けるとおっしやるのはそういうことではなかろうか、十三節と十三というのは、ここでは神の願いが成就される日と言われる。
 そういう心の状態に私共がならせて頂くという事が、そのままが神の願いであると私は思う。神の願いに答えての日々、それが私を空しうした姿なんです、私の願いの為に奉仕するというのはもう条件がある、私の願いの為に信心の稽古をしてるというならば、おかげは受けても何十年たっても倍力の徳にはならない、いうなら神さまの願いを中心にしての信心の稽古これがそのまま倍力の徳を受ける無条件の姿、又は教えの昔に帰った姿という事になります。
 今悪口いわれとる人もありましょう、笑われている人もありましょうけれども、それはいよいよ本番、いよいよ桧舞台にたたせて頂く時の為の稽古であると思わせて頂いて、倒れても転んでも人から笑われてもくじけずに信心を進めていかなければ、本当のおかげになってまいりませんですね。                           どうぞ